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2008年01月26日

小説「旅立ち」



    十 伝説の山 (2)


炎の中で燃え尽きた母、殆ど時間をかんじさ

せることなく白い粉と貸していた母であった。

まるで軽石を拾うような感覚で、死んでもな

お、壊れそうな骨を少しばかり骨壺へ納めた。

母はマーペー女のように身を石にしてその悲

しみや無念さを訴えることはない。しかし母

は、私の心の中で、石のような感覚でよどん

でいる。)

眼前に迫った野底マーペーが、灰緑色ににじ

んでいった。暗雲はすでに低くたれ込め、や

がてそれは、自らを支えル力を失い、大粒の

雨を吐き出した。伸夫は、この天の飛沫を体

一杯に受けてデッキに佇んでいた。雲が少し

ずつ白んでいった。

操舵室から、下村船長の太い呼び声がする。

伸夫は、雨でぬめった手すりを注意深く握り

しめながら操舵室に入った。

「何を、ぼーっとしとるんだ、雨に濡れて。

君子のことでも考えてるのか」

「いえ・・・・・」

「なら、いいが。もうそろそろ夕飯だ。着替

えでもしてゆっくりしなさい」

「・・・船長。海、きょう荒れるんですかね

え」

「どうしてだね。そうだなあ、前線が今晩あ

たり通過するとき、きっと、大荒れだよ」

「海が荒れて、時化がひどいとき、船長、平

気ですか」

「何が平気なもんか。いつも祈るような気持

ちだねえ。若いときは、そうではなかったん

だが」

「若いときは、どうだったんですか」

「そうだなあ、大自然を前にして、この状況

を克服したいと考えていたよ。だから、自分

に頑張れ、頑張れ、乗り切れ乗り切れと挑戦的

だったなあ」

「今はどうなんですか」

「いまかい。そうだなあ。はっきり説明でき

んが、船に励まし言葉をかけているような気が

する。船と波がひとつになって、自然の流れで

航行しているような気がするんだ。そう、思

いはだいぶ変わった。船と自分がひとつのよ

うな気がする・・・」

船長は、目を細くしてなにかを思い出す風であ

った。私は、黙ってそこを離れ船長室に入り着

替えをした。



船長室の窓を開けて、外を見た。船は漆黒の闇

の中を航行していた。島影はいつの間にか闇に

溶けていた。舳先が波を切り裂いて鳴動してい

る。強い潮風が、マストにせかれて、重い唸り声

をあげていた。船舷から漏れる 淡い光に泡立

つ波が反射しながら、深い闇の中へと足早にさ

て去って行った。時折、青白い光の群れが船舷

を駆け抜けた。海ほたるの群れであった。




        小説「旅立ち」 



 * ご愛読大変ありがとうございました。
  次からは小説「闇と海と」を搭載します。


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2008年01月18日

小説「旅立ち」

十 伝説の山 (1)

船が、島の西にある観音崎を抜ける。そこに

は名蔵湾が広がっていた。湾は島に深く食い

込んでいて、起伏のある平野が眺望出来る。

田や畑に混じって所々に赤い屋根が平野の深

い緑の中で冴えている。

今にも、雨を吐き出しそうな灰黒色の雲が少

しだけ切れて、そこから一条の光が漏れ、湾

に面する平野や山々を薄紅色に染めていた。

船は、舳先で太古の海を切り裂いて進んだ。

白波が緩やかな弧を描いて船尾に向けて外の

方へと、流れていた。船は、前方から寄せ来

る波に逆らいながらも、船体を群青の海の大

きな動きにまかせて進んでいた。潮風がすさ

まじい音を立てて、私の耳元をよぎって言っ

た。

御願崎(うがんざき)にさしかかると、船は

激しくピッチングした。波の飛沫が私のほほ

をたたきつける。かつて少年の日、父重治に

張られたビンタの痛みが蘇った。

空は、すでに暗雲で覆われ、島の景色は灰色

に沈んで見えた。伸夫は、自分が20年の歳

月を過ごしたこの島の風景を決して忘れまい

と、船の揺れを気にせず、手すりにもたれて、

凝視し続けた。やがて眼前に、伝説の山、野

底マーペーが、悲しみにうち沈んだような姿

を現す。伝説の山、その伝説とはこうである。

(強制労働のため、野底村へ移住させられた

マーペー女がいた。女は、この村へ来て、毎

日毎日、相思のカニムイのことを思い、この

山の頂上に登って、遙か南にある黒島を眺め

て泣き、一日も早くカニムイに会える日を待

ちこがれた。しかし、カニムイに会える日は

とうとう来なかった。そしてこの女は 、こ

の山に頂を離れがたく、一歩も動こうとしな

い。マーペー女は、とうとう石になってしま

ったという。これほど強い愛すらも神は成就

させなかった。山の頂で、首をうなだれて泣

いている石の女、永遠の愛と悲しみのために

石と化した女の姿である。 マーペーの気持

ちが伸夫の心の中で膨化していく。このマー

ペー女は、伸夫の母、清なのかもしれない。

乳飲み子や育ち盛りの子供を、夫重治の手に

託し逝ってしまった清の悲しさや無念さが奈

辺にあり、誰に向けられていたのかは、今と

なっては知るよしもない。しかし、少なくと

も伸夫は、伸夫なりに清の気持ちを形象化し

ている。)

そう思いながら、伸夫は、まざまざと見せつ

けられた清の最後を、眼前の虚空に見ていた



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2008年01月02日

小説「旅立ち」

テンテン1.JPG

九 船出(3)


船が緩やかなエンジン音を船体に響かせなが

ら岸壁から離れる。五色のテープが伸びきっ

て、何の抵抗もなく重治や祖父、妹たちの手

からこぼれ落ち、空高く舞い上がった。速度

を速めて、船体は桟橋を離った。

聡子が突然、人混みをかき分けて走り出す。

口に両の手を当て、

「にいちゃん、うちもやがて、いくからねー

っ」と言う声が、騒然とした情景の中から、

飛び出して伸夫の耳に届いた。



やがて、顔面の群衆や、町並みや、遠くに連な

る山々が少しずつ動き、視覚から遠離ってい

く。だのに、母の壮絶な最期や君子の姿が心

の中で緩やかに膨化し、やがて伸夫の視界が

揺らいで行った。
       

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2007年12月21日

小説「旅立ち」

りきWEB用.JPG

     九 船出(3)

船が緩やかなエンジン音を船体に響かせなが

ら岸壁から離れる。五色のテープが伸びきっ

て、何の抵抗もなく重治や祖父、妹たちの手

からこぼれ落ち、空高く舞い上がった。速度

を速めて、船体は桟橋を離った。

聡子が突然、人混みをかき分けて走り出す。

口に両の手を当て、

「にいちゃん、うちもやがて、いくからねー

っ」と言う声が、騒然とした情景の中から、飛

び出して伸夫の耳に届いた。

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2007年12月18日

九 船   出 (2)

青のシーサー.JPG 
青いシーサー    

     九 船出(2)


 美崎丸の汽笛が、暗雲に覆われた三月の空に

響きわたる。その響きは、遙か彼方の石城山

の木霊となって、伸夫の耳に届いた。

「にいちゃーん、がんばって、はやく帰って

きてねー。みんな、まってるよーっ」

群衆のざわめきの中で、真弓の声が、一直線

に伸夫の耳に届く。伸夫は首で頷いた。重治

は、じっと伸夫を見ていたが、やがて無言の

まま眼を閉じた。重大なことがあるときの重

治の癖であった。だから、伸夫は重治か何か

大きな決意を秘めて伸夫を旅立たせているの

ではないかと思った。祖父の脳裏には、遠い

昔、かにむい(重治)を台湾へ旅立たせた光

景が去来しているに違いないと伸夫は思う。

その時、重治の決意は、けしてこの島の土

を踏まないという決意であったらしい。そん

な重治やいとぅぬの思いを心の中で反芻しな

がら、この船出の光景を視野の外に置いてい

た。

この船出は、伸夫とは無関係のとろで華やい

でいる。伸夫の視野の中で固定化された風景、

」それは、重治、祖父いとぅぬ、いもうとた

ちの、ごく限られた集団であった。

出発の日を告げたのに見送りに、君子は、見

送りの群衆の中には居なかった。

               つづく


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2007年12月14日

  九 船  出 (1)

姫(玄関で).JPG     九 船出(1)


銅鑼が船内に鳴り響くと、見送りの人たちが

一斉に美崎丸から吐き出された。サロンで出

港手続きをしていた船会社の者たちが下船し

た。船舷のタラップが引き上げられ、舫綱が

解かれた。船内に「蛍の光」が流れる。それ

と同時に、船は、ぶるっと体を震わせ、エン

ジン音を船体に伝える。船の後方でザワッと

ひときわ高い音がしてスクリューが回り出し

た。船は、岸壁を少しずつ離れていった。



祖父母の安堵と期待の眼が私を見据えてい

た。喜びとも悲しみともつかぬ父の顔が見え

隠れしていた。護岸に広がる見送りの群衆の

手が波打ち、それぞれの思いを込めた声が飛

び交っていた。そして、時たまテープが風に

なびいて激しく揺れた。やがて、船上の声や

岸壁の声が怒濤のようにうねっていく。

              つづく


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2007年12月03日

小説「旅立ち」

     八 野獣の目(8)

「そうかなあ」

「あっ、ごめんごめん、で、どうして、今日

は・・・・・」

「うん、こないだ会社止めたよ。試験も合格

した」

「そう、よかった。会社止めたことは下村さ

んから聞いたけど。そう、これであなたの人

生も変わるさ。きっと、私なんか詰まらない

女にみえてくるわよ・・・・・」

「・・・・・・」

別に、否定するでもなく酒を口にした。酒は

ほどよく体を温め、脳を少しずつ刺激してい

た。合格の喜びが伸夫を陽気にしてくれるは

ずであったのに、滅入っていく気持ちが伸夫

の心に充満していった。

(人間の気持ちなんて、そんなに確固とした

ものではないのだろうか。君子が言うよう

に、私が確実なものだと思っていることは、

実は大変不確かなもので私の愚かな幻想に

しか過ぎないのだろうか。そして、私は常に

揺れ動き、悩みながら生き続け、ついには、

なぜ、これほどまでに家族の絆に執着せねば

ならないのか、なぜ、この女を愛し続けなけ

ればならないのか、ひいては、なぜ、自分が

生きているのか、それらの意味を見いだせぬ

まま、いや、そんなことすら感じないまま、

漆黒の闇にきえていくのだろうか)と畏れた。

「君ちゃん、今日おまえと一緒にいていいか」

「いいわよ」

「じゃあ、れいの旅館で待っている」



その夜、伸夫は君子の気持ちなど考える余裕

もないほどに、己の欲情を貪っていた。冷や

やかな君子の目が、いっそう伸夫を高ぶらせ

た。気持ちの高揚が極致に達したとき、急速

に訪れる倦怠の中で、私は確か、(母ちゃん

・・・・・)と呻いてたような気がした。



        この章おわり。     

        次回から「九 船  出」

        を搭載します。よろしくお

        願いします。


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2007年11月29日

小説「旅立ち」

小説「旅立ち」




   八 野獣の目(7)


「現になによ・・・・。ねえ、現になに? 

言わないの。卑怯よ、じゃあいいわ。とに

かく私は、いや。私が惨め。あなたに一生

負い目を感じながら生きるのよ」

「別に、負い目なんか感じなくてもいいよ」

「そうはいかないわよ。男はみんな同じ、

あなただっておなじだと思う。世間に自信

を持って、私があなたにとって、ふさわし

誇りのある妻だと言えるかしら。そんなこ

と言えやしない。(俺は遊郭の女を救った

んだ)って、心のどこかで思い、何かあっ

たら、その思いが必ず態度に出るわ。こん

な事、私には絶えられない。私には今の生

き方が将に合っているもの」

「はっはっは、なに格好いいこと言ってる

んだ。そりゃあ、君の言っているようなこ

とが絶対ないとは言えないよ。だからとい

って、一緒になって子供でも儲ければ話し

は別だ。現に・・・・・」とまた言いかけ

た伸夫は黙った。

「何言っているのあなたは。さっきから

(現に・・・、現に・・・・・)って言っ

ているけど何よっ。気になるじゃあない。

まあ、いいわ、。あなたこそ格好いいこと

言っているのよ。私を身請けしてくれると

でも言うの? たとえ、そうしてくれても私

はいやよ。私がさっき言ったこと、これが私

にとっては大切なことなの。あなたは、私を

愛してるって言ってるけど、私には信じられ

ない。若い人って、前にも言ったと思うけ

ど、肉欲と愛をはき違えていることが多い

し。いや、あなたがそうだと言っているわ

けではないよ」

「そんなもんかなあ・・・・・」

「そんなもんよ。あなたみたいなお坊っち

ゃまには、解らないだろうけど。家族もい

ざとなると頼れないものよ。私が母さん

の」ところに来たのは十二歳のとき、事情

は知らないけど、今考えると、」親もほんと

に困ったときは自分の子を売るんだもの。

時々、癪にさわるけど、心底、親を恨めな

い。私だってするかも知れないもの。生き

るためにきれい事は言ってられないもの・

・・・・・。あなた、いつか自分は家庭の

犠牲になっているって言ってたわよね。で

も、あなたは家族と住めるだけ幸せだわ。

ほんとに生活に困ったら、今のようには行か

ないわよ。お互いに自分のことばかり考え

て・・・・。あなたのそれは犠牲とは言わ

ないわ」

「そんなこと、相対的なもんだよ。君の時代

と、ぼくの時代は、事情が違うんだから・・・」

「ソウタイテキ? 何よそれ。何を言いたい

の。事情が違うのはわかるけど、事情が違った

って、人間の気持ちなんて、そんなに変わるも

のじゃあないわ。偉そうなこと言ってごめん

ね。でも、私あなたより十年も長く生きてるん

だもの。自然に生きようよ。あなたみたいに運

命だ、宿命だなんて肩肘張らずにさあ・・・。

ばっかみたい。人生がどうのこうのってさあ。

今だって、ほら、結構楽しいじゃない?」

「そうかなあ」


            つづく



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2007年11月26日

小説「旅立ち」




八 野獣の目(6)

「久しぶり・・・・。今日はどうしたの・・・・・」と言いながら、酒と料理を卓に並べている。あの懐かしい君子の香りが部屋を満たす。
「しばらく。元気そうだな」
伸夫に座るよう促しながら、「ええ」と返事した。そして、湯飲みほどもある思われる杯に酒が注がれる。
「会って、話したいことも沢山あったんだけど・・・・・」と、言い訳がましく言う。
「そう。でも会わない方がよかったのよ。あんたのこと下村さんからも母さんからも聞いてたし、だから、もう来ないものと思ってた・・・・・。それに、あの晩、ひどいこといったもんね」と言って、君子は距離を置いた。
「ん? ああ、あのこと」
「そう、あのこと。でも、ほんとの気持ちなのよ、解って。この世界の女が堅気になるのは難しいのよ。不可能に近いかも知れないわ。あんたがたとえ私を身請けしたとしても、いや、母さんがあんたと一緒になることを許したとしても。そのあと、うまくいくかどうかわからないもの」
「うまく」行かないなんて事はない。お互いの気持ちだよ。それに堅気になることは不可能ではない。現に・・・・・・」と言いかけて、伸夫は一瞬次の言葉を詰まってしまう。

                         つづく



 


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2007年11月20日

小説「旅立ち」

     八 野獣の目(6)


「久しぶり・・・・。今日はどうしたの・・・・・」と言いながら、酒と料理を卓に並べている。あの懐かしい君子の香りが部屋を満たす。
「しばらく。元気そうだな」
伸夫に座るよう促しながら、君子の顔を伺う。
「ええ」と君子は返事した。そして、湯飲みほどもある思われる杯に酒が注がれる。
「会って、話したいことも沢山あったんだけど・・・・・」と、言い訳がましく言う。
「そう。でも会わない方がよかったのよ。あんたのこと下村さんからも母さんからも聞いてたし、だから、もう来ないものと思ってた・・・・・。それに、あの晩、ひどいこと言ったんですもの」と言って、君子は距離を置いた。
「ん? ああ、あのこと」
「そう、あのこと。でも、ほんとの気持ちなのよ、解って。この世界の女が堅気になるのは難しいのよ。不可能に近いかも知れないわ。あんたがたとえ私を身請けしたとしても、いや、母さんがあんたと一緒になることを許したとしても。そのあと、うまくいくかどうかわからないもの」
「うまく行かないなんて事はない。お互いの気持ちだよ。それに堅気になることは不可能ではない。現に・・・・・・」と言いかけて、伸夫は一瞬、次の言葉に詰まってしまう。

                         つづく

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2007年11月18日

小説「旅立ち」

     八 野獣の目(5)


 通された部屋は、四畳半ばかりで床の間もなく、部屋の片隅に飾られた派手な壺が不釣り合いであった。ガラス戸に接近して立っている高い粟石の塀の向こうは、確か、連れ込み宿のある路地だろう。初めて入る部屋であった。伸夫は周囲をぐるりと眺めた。床までガラス張りの塀沿いの戸は、冷たい夜気に震え、外の苔むした黒っぽい塀のために鏡のように部屋をいびつに映し出している。

 ガラス戸の前に立った伸夫は、自分の着ぶくれした全身を初めて見た。ガラス戸に映るいびつな伸夫の顔に、目が青白く光り、痩せて高く盛り上がった頬骨が、顔に陰鬱な陰りをつくっている。その様相はいかにも狡猾であった。

 風呂屋の鏡で見るやせ細って肋骨の浮き上がった自分の体、この中に納まった気弱な自分を、分厚い蓑で覆い隠していると思った。昼間、鏡に映る穏やかで人なつっこい顔、その中の丸い大きな思慮深そうな目は、様々な人々の軋轢の中で、自己保身のためにつくられていった物で、本当の自分は、このガラス戸にいびつに映る影に表象されているのだと思う。いつも何かに怯え、獲物をねらうように目を光らせ、他人の弱みを嗅いでいる。この醜悪な形をした鼻で、他人の心をかぎ分けている。 伸夫は、大きくため息をついた。

 襖の開く音がして、ガラス戸の一角に君子が映った。伸夫は笑みを満面に浮かべて君子を見た。


                        つづく

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2007年11月17日

八 野獣の目 (4)

     八 野獣の目(4)

  
 耳の切れそうな凍てついた空気が、町の北の方から、ひたひたと流れ込んでいる。腕時計の針が九時を指している。寒さのためにこの町は、息を潜めて闇の中にとけ込んでいた。時折、ピョロロー、ピョロローと群鳴しながら、山手の方へ去っていく鳥の声が、この凍てつくような堅い夜の空を、もの悲しく深遠な空間にしていた。

 福亭は賑わっていた。玄関口でパンパンと手を叩く。すると、奥の方から足音がして女将が現れた。女将は、櫛目の通った長い髪を胸元で束ねながら、
「ああら、お久しぶり。いらっしゃい」
鼻にかかった女将の声が艶を放つ。
「部屋、あいてる。君ちゃんに会いたいんです」

 半年前までは、玄関口で合図をすることもなく、ずかずかと廊下へ上がり込んで、開いてる部屋に入り込んで君子を待っていた伸夫も、いま、福亭の敷居は高かった。

「そう、君ちゃんに連絡してみる。さ、さどうぞ。外寒いでしょう・・・・」
確か、女将は下村船長から私が大学へ行く希望があり勉強中であることを聞いていたに違いない。そして六ヶ月も君子と会っていない事などから(もう、君子に執心することはない)などと話していたに相違ない。


                          つづく

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2007年11月15日

八 野獣の目 (3)

    八 野獣の目(3)


 重治は、喜びのあまり畳を踏み鳴らしながら、仏前に行き、香に火を点し炉に立て手を合わせる。そして、私の合格を報告している。五十を少し過ぎた重治の後ろ姿には、心なしか哀愁が漂っている。それはきっと、仏前に座し、背をかがめ、ひたすら祈りの世界に没入している所為ばかりではなかった。口では唯物論を説きながら、清の死という事実を突きつけられて、心の深奥では、唯物的死の意味を失いつつある姿が、背後から伝わって来たからである。
 重治の背に、下村船長の、あの脂ぎった色好みのする顔が重なっていた。たしか船長は、(人間はもしかしたら死ぬ寸前まで欲情があり、その発散の衝動に駆られるかも知れない)と話していた。重治は清が他界して以来、一体、どのように我が身を処して来たのであろうか。六十に手の届こうとする船長に、あれほどの欲情があるとするならば、五十歳そこそこの重治に歯、当然にそれがあってよいはずである。
重治が振り向いた。それを待って伸夫は、
「じゃあ、行くからね」
「今日は家に帰るのか・・・・・」
「わからん」と答えながら、今日はきっと家には帰らないだろうと考えていた。

                        つづく

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posted by かねやん at 17:14| 沖縄 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「旅立ち」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月14日

小説「旅立ち」

快晴.JPG

     八 野獣の目 (2)



 重治は、伸夫達のことをあまり干渉しなかった。困ったものだとは思いつつも、仕方のないことだと考えているらしい。男と女の仲は、どのような障壁があろうとも、それを乗り越えようとする意志と努力さえあれば、誰も、如何ともし難い物であることを、重治自身が身をもって知っていたからである。

 母清を亡くしてこのかた、重治に女性関係の噂がたったことを聞いた事がない。噂がないことに周囲が業を煮やし、再婚話を何度も持ちかけていたようであるが、そのたびに重治は、頑なに断っていたようである。それは、祖父母への当てつけであるようにも見えた。祖母(後妻)に育てられた精神的苦痛を、我が子だけにはさせたくないと言う重治の、独りよがりとも言える配慮からである。母清に対する父重治の思いがどれほどの物であったかは知るよしもないが、煤けた仏壇の奥に、ぽつねんと鎮座している手造りの母の位牌が、重治の気持ちを物語っているようでもあた。なぜ、母が本位牌の中に入っていないのか、伸夫には未だに解らない。ただ、重治は、神や仏を信じようとはしない、全くの無神論者である。従って、母清が、本位牌の中に埋没して、無個性の木片となっても、重治の主義と相反することはない。しかし、重治は、そうなることを畏れているようにも見える。むしろ、それを畏れての仕方なのかも知れなかった。重治は、仏壇の清に無関心ではいられないのだ。清に対しては己の主義を通し得ていないのだ。(人間でも死ねばただの物)とするならば、そしてこれが無神論者の基底の理論であるとすれば、清に対して、このように唯物的に考えることは、己と清との関係を説明するには、あまりにも惨めすぎるのではないか。


                        つづく

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posted by かねやん at 19:02| 沖縄 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「旅立ち」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月13日

八 野獣の目 (1)

     八 野獣の目(1)



古い柱時計が、間の抜けた音を響かせて、夜の九時を告げた。時を同じくして、親子ラジオが時報を告げ、女性アナウンサーの歯切れのよい声が流れた。
「・・・・・・では、文理学部法政学科の合格者です。・・・受験地八重山・・・」
伸夫の名前がアナウンスされると、真っ先に真弓が声を張り上げた。
「うわー、兄ちゃん合格・・・。おめでとう」
重治は、黙って頷いている。祖父も祖母もラジオの音声に耳を傾けていた。
家族の祝福を受けたとき、伸夫の心には、何か勝ち誇った感覚が漂っていた。そして、父や妹たちや祖父母の安堵の顔を見ると、そこに母のいない寂しさを感じた。まだ、母が病の床に伏しているとき、母に伝えた決意があった。それは、「将来医者になって、貧しい人たちを救いたい」と約束したことだった。それに従わず法学部にしたのは、実利的な理由からだけであった。母には申し訳ないと思ったが、一年浪人をしてまで医学部を目指すことは、経済力の及ばないところであったからだ。それより、一つの安堵感が伸夫の心を支配していた。不合格の烙印を回避できたという安堵感であった。この安堵感が、これまでの緊張を少しずつ遠くへ押しやっていく。そんな中で、君子のことが脳裏を過ぎった。
「父ちゃん、ぼくちょっとでてくる」
「どこにだい・・・・・」
「君ちゃんのところに、ちょっと・・・・・」
「まだ、あの女とつきあっているのか・・・・・」
「いや、君ちゃんのところへは、去年の夏以来行ってない。でも、今日は、この合格をつたえたい」
「そうか。嫌みにならなけりゃあいいんだが・・・・」
「そんなことは、きっとないよ」
「・・・・・・」

                             つづく
 
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2007年11月07日

七 退職の日 (4)

      七 退職の日(4)



ほっとした気持ちで社長室を出た。事務室では、皆それぞれに仕事をしていたが、何かしら皆の視線が集中しているようで、伸夫は上気している。日頃は、それぞれの話し声がはっきりと聞こえるのに、今日はそれらが天井にこだまして伸夫の聴覚の奥に消えていく。快感に鳥肌が立つような気分で席に着いた。一呼吸おいて、
「あっ、皆さんおはよう御座います」とうわずった声を出していた。伸夫のこの唐突な発声に事務室が少しざわつき、
「おはようって、君今、11時だよ」と平井総務部長がからかうように言った。
「済みません、深夜業あけだったものですから・・・・・」
何を勘違いしたのか、男の職員は大笑いをし、女の職員は少し戸惑っていた。そんな中、伸夫は営業課長の席の前に立って、一礼をした。
「やっぱりやめるのか・・・・・」と、(君の読めた行き持ちは解るよ)と言いたげに伸夫を顔をまじまじと見る。
「はい、もうしわけありません」
「そうか、そうか。・・・・・でも、若いもんは、やり直しがきくから・・・・・、羨ましいよ。頑張るんだぞ」と言って、伸夫の肩をぽんと叩いた。

                                つづく

posted by かねやん at 23:06| 沖縄 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「旅立ち」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月06日

小説「旅立ち」

     七 退職の日(3)


事務所にはいると、コンクリートの床がゴム張りのように感じられる。この不安定な感覚をからだ全体で支えながら社長室に入る。社長は決裁文書に目を通して、判を力を込めてぎゅっと書類に押していた。それから、伸夫の気配を感じて向き直り、蟹目の眼鏡をかけた丸い顔を向ける。太って大柄な社長は背を少し前に倒し、上目づかいに伸夫をみる。
そして、予期していたように、
「とうとうきたか・・・・・」と言った。
「社長、やはり会社を辞めたいと思います。ご迷惑をおかけしますが・・・・・・」
伸夫は内ポケットから辞表を取り出しながら、そう言い、社長にそれを差し出した。社長は片手で辞表を受けながら、
「かにむい(重治)は知ってるのか」と訪ねた。
「はい、許してくれました」と目を輝かせて、しかも力を込めて返事をする。
「おうか・・・・、入社の時、かにむいからおまえのことをしかと頼まれたが、おまえのことだ、いずれは大学に行くために止めることは予想していたよ。検定試験の時は下村船長の甥御さんに世話になったそうで、下村君も、おまえが大学進学するだろう事はたびたび話していた」
下村船長は、先島丸の船長を長年していたが、去年の八月に美崎丸の船長に配置換えになっていた。
父が、後日、社長と下村船長にお礼の挨拶に伺いたいと話してました。
「うん、解った。試験合格することを祈るよ。いや、大丈夫、おまえのことだから・・・・・・」
「有り難うございます」
「退職の日は、後日、平井君から連絡させる」
「はい・・・・・」

posted by かねやん at 15:21| 沖縄 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「旅立ち」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月05日

七 退職の日(2)

       七 退職の日(2)



長い間勤めた海運会社の退職を決意した。決意と同時に、大学受験の準備をする。いずれは大学へ行こうと決意していた伸夫は、記憶を維持するために旺文社のラジオ講座を出来るだけ聞くようにしていた。毎朝午前5時に起きて親子ラジオのスイッチをひねった。ブラームスにの大学祝典序曲が流れると、講師